昭和42年10月28日 朝の御理解



 私は思うんですけれど、私は信心が好きだなと自分で思うんです。皆さん、信心はですね、好きにならないと信心は進みません。好きこそものの上手なれです。信心をしておっても、信心そのものが好きではなくて、御利益が好きだと言うだけの人が多いですね。信心が好きにならにゃ信心は進みません。信心の奥がとでも申しましょうかね、奥の奥を極めていこうとする信心がいよいよその人を有り難いものにし、いよいよ徳を受ける力を受けさしてもらうことができるのです。
 昨夜、ちょうど昨日久留米の御大祭でございましたから、帰らして頂きましたら、福岡の高橋さんがみえておりました。それからあの、いろいろとお取次ぎさして頂いてから夜の御の祈念を頂いて、夜の御祈念の後もまた信心のよもやま話でお茶でも頂いて、話し込んで帰りました。
 久富先生、それから若先生、それから末永さんは途中まででございましたけれども末永さんと、繁男さんと、(?)ゆっくりしときましてから、お茶でも頂きながら、まあ洋間で話しましょうか。それで洋間でお茶を頂きながら信心のよもやま話を聞いてさしてもらい、それからまたお茶をもらい、初めの間はココアを頂いたけれども、公子さんがお茶を持ってきた時にはもう12時だったでしょうか。
 それからお茶を片付けた頃にはもう公子さん達はみんな休んでしもうて、それからもうお茶もない、何もない中で信心話が続くんですね、ちょうど2時過ぎまででした。もう夕べ休んでなかったとかですね、もう遅いとかね、そういうものを忘れてしまうんですね、信心話をしておりますと。もうしかも、だんだんだんだん、いわゆる本当のこの、最近こう少し風邪気味ですが、あんたどんぞこぞこすると言いながら、やはり信心話は尽きない。
 そういう中にですね、本当に信心のその、深さというか、もう限りない信心の有り難さというものを味わわしてもらうのですから、そして、やあもう、2時も過ぎた。遅うまでお話頂いてからまた、御祈念さしてもろうて、休まして頂く時に感じるんですね、私は信心が好きなんだなとこう思うんです。

 教祖伝にも夕方から(たね?)からみえられる斎藤という先生と、もう御祈念、お広前を下がられてから、金光様と斎藤先生と話が続いて、寒くてです、寒い時のふうですから、こたつの中に入ってお話になっておられる、いつのまにかこたつの火も消えてた。そこで奥様にこたつの火を入れさせようと思うて、ちょっと見られると、奥様2人で一生懸命信心話をなさっておられますから、それをするまで待っておられながらそこで眠り込んでしもうておられる。
 それで、こたつの火を入れさせようと思うたけれども、御覧なさい、昼の疲れで家内がもうあんなにぐっすりと眠っております、もうですから起こすのもかわいそうですから、もういっぺんお広前に出ましょうか。と言うてこたつから抜け出してからまたお広前に出ておられます。そして、冷えついでにもう一つ冷えましょうやと言うて、御神前からおみかんを下げられて、おみかんを頂きながら一晩中語り明かしておられるようなところがございますね。
 本当にこの好きなことと言うですかね、しかもその話がこう話しておって分かる。何かね、お酒を飲んだり話したり。まあ私いつも共励会の中で申しますけれども、お茶の出る前でなからなければお茶、茶番話になってしまう。お茶どん飲みながら話したって、そりゃもう茶番話だと。けれどもやっぱ好きだからお茶を飲みながらでも話せることは信心話。やっぱり好きなんですからお酒頂きながらでも信心話。だけれどももうその酒も片付きお茶も片付けられてしもうて、それから出るのが本当なもんですね。
 昨夜それをしみじみ感じました。もうお茶も片付いてしもうて、もうそりゃもうたとで、その次から次へと出てくる信心話に立てんのですね、皆が。私も帰したくない、それから本当に、本当にこういう信心の深い話というか、こういう話はただ、普通ではできるこっちゃないと思われるような話が次々と飛び出してくるという、信心話が尽きることがない。皆さんどうでしょうか、よい話は本当は出るだろうと思うても、さあ夕べには出ないことが、さあ明日また早いことが。それではまあだまだ信心が本当に好きとは言えないと思うですね。
 これがもう好きなことをしておる時にはですね、これがもうながらくやみませんけれども、私、若い時、いろいろ友人おられました、ね。三味線を弾いたり踊りを踊ったり、もう本当にそういう三味線友達やら踊り友達が参りますと、もう本当にやはりもう夜もふけるのを忘れてしもうております。もう少々風邪引いて頭痛いようなこと三味線ども、言わば好きなことをしておると、頭痛いようなことは忘れてしもうとります。
 ようにですね、やはりあの皆さん、信心はですね、どれほど皆さんのものになっていきよるか、信心が自分のものになっていきよる、信心がどのくらい、その有り難くなっていきよるのか、これは夫婦でも親子でも同じです。信心話しておったら、本当にもう相手があくびをしている、もう眠うしてこたえんというふうに、すれば別ですけれども、相手がまあ例えば私の話を聞いてくれるなら、もう限りがない。もういつまでも限りがない。
 今日もさほど、そういうようなお元気になられておる御信心に対するところのその意欲といったようなものがですね、感じられるような場面が沢山ございますけれども、お互いこれは私自身のことでも、自分ながら私は信心が好きなんだなとこう思うのです、ね。ですから、誰にでも強い、ね。皆さん、本当に信心が好きになる。信心になってものを稽古をしようと、本当に好きになる、ね。
 こう早う起きて、朝早うから誰がために参っておるか、あんたどんがために参っとっとばと、このことを尋ねなんけん参りよっとばの、ね、このことをお願いせなならんけん参りよっと、ここに。どうでもおかげ頂かんなんことができたから、それけん無理して参りよっと。と言う間は、それこそまだまだでございます。
 もう本当にお互い信心が好きになるためにはですね、初めから誰でも好きな者という者はおりません、ね。本気で稽古をいたしますと、本当に信心のその妙賀というかね、信心、これは信心に限らんのですけれども、その妙に触れることができる。それがたまらんのです。好きこそものの上手なれと申します。いっぱいあの、好きにならなければ信心は上達いたしません。上達しなければもちろん、徳も、本当のおかげも、力も受けることはできません。
 どうぞひとつ、信心が好きになる。もう暑いも寒いも言うておらん。夕べは眠っとらんけんなんて、そげなことなんかはもう信心話しよったら忘れてしまうくらいにです、なら好きになることを願わなければいけないと思うですね。どうぞ。